大林玄一君 お別れの言葉
玄ちゃん、最後まで玄ちゃんと呼ばせて下さい。
玄ちゃんと最初に会ったのは五十数年前、昭和三一年四月、愛知県立時習館高等学校の一年三組に入った時でした。
全てが一年三組から始まった様な気がします。
多くの優れた生徒がいる中で、貴公子の如く他のみんなとは違った感じの生徒がいました。
生まれ育ちが我々とは違って、品も良く近寄りがたいような大人の雰囲気を持っていました。そのくせ気取るでもなく自然の姿で
まさしく「かっこいい」のが玄ちゃんでした。
仮装行列の「赤い馬」の中で、はだかで焦げたボロを縫い付けたパンツ姿の玄ちゃんは何故か忘れられません。
二年生以降はこれはと言った付き合いは無く、大学を出てから数年後に玄ちゃんが勤めていた石川島播磨重工業の田無工場を見
学させてもらいました。
その後ヨーロッパの方に転勤になり、しばらく疎遠になった状態が続きました。
玄ちゃんが英国から帰国し、時習館の同窓会を始め、十一回生の同級会の活動に参画し、地元豊橋を含め東京地区のまとめ役として
中心的なはたらきをしました。
特に同窓誌「時習の灯」に於いては編集長までして、会を通して人の交流、文化、教育、情報の交換など裏方として重要な役割を果たしました。
その頃から時習囲碁会、時習SGAゴルフ会、十一回生の東京の会である「栄士会」を通じ色々なお付き合いをして頂きました。
特に囲碁については高校時代に一度打った記憶が有りますが詳しくは覚えていません。
東京で会った頃は一目か二目玄ちゃんが置いていたのですが二年ほど前にはにぎりまでにさせられました。
他のことではいつも一目や二目おいていたので、囲碁だけは何とか置かせようと思っていましたが追いつかれてしまいました。
囲碁だけでなくゴルフなど、何事に於いても変わらない実直な態度と、きちんとした性格は他にないすばらしい人でありました。
世の中の人が玄ちゃんみたいな人ばかりの集まりで有ったら、どんなに良い社会であるか解りません。
但し、玄ちゃんみたいに女性の気持までみんな持って行ってしまったら、他の男達が困るだろうと思います。
十数年前に僕と家内がロンドンで二~三日お世話になりました。それから家内は大の玄ちゃんフアンになりました。
帰国したあと色々な集まりがあり、それに玄ちゃんが来ていたと言えば、遅く帰ろうが、酔っぱらって帰ろうが、何をしていても直ぐに
家内は理解してくれました。このことを悪用すれば出来たのですが、玄ちゃんに迷惑をかけるだろうと止めてきました。
優しさとき然たる態度はまねの出来ない素敵な姿で、うらやましいほどで誰からも好かれたと思います。
僕は十年ほど前に親しい友達を亡くし、弔辞を読んだことが有ります。それ以後二度と読むまいと心に決めていました。
しかし今回僕が色々とお世話になったことを玄ちゃんが帳消しにしてくれそうなので、あえてこれを読んでいます。
このことは僕だけでなく、十一回生の殆どの人の気持ちも同じであります。僕が代表してみんなのお世話になったお礼の代わりを言います、
そのことを玄ちゃんは解ってくれると思います。
僕は余り神様を信じていません、しかし玄ちゃんなら信じます。後から行く僕たちの休む場所を確保してくれるように頼んだら、
きっと快く沢山確保して於いてくれることと信じます。
玄ちゃん、心から言います有り難うとさようならを。安らかにお眠り下さい。
平成二十五年三月十九日
時習館高等学校 十一回生代表 近藤勝洋