内藤貴美子先生の想い出
鈴木賢一
内藤先生が亡くなられたほぼ1年後、2003年5月に開催された追悼コンサートに、同じ音楽部
仲間だった日暮康男くんと連れだって出席した。
会場の豊橋市民文化会館ホールは満席だった。そこでは、同期の宮津まり子さんを始め、
先生のもとから巣立って音楽の道に進んだ人たちの見事な演奏が披露された。先生がいかに
きな足跡を残され、いかに多くの人に敬愛される存在であったかを、改めて思い返した一日だった。
高校3年に進んで最初の音楽の授業が終わり、教室から出ようとしたところで、先生はわたしを
呼び止めてこう言われた。「3年生の男子部員がいない。男声が弱体だから、あなたコーラスを
やりなさい」。なぜか即座にその気になってしまったのだが、やはりひとりきりでは心細い。
そこで日暮くんを誘い、こうして2人のにわか音楽部員が誕生した。
音楽部の最大の目標はNHK全国唱歌ラジオコンクールだ。しかし、それまで数年続けて、
東三河大会で豊橋東高校の後塵を拝してきた。この状況を打開するために先生が立てられた方針は、
課題曲「空遠く君はありとも」と自由曲に選んだ「海の若者」の2曲を徹底的に歌い込むことだった。
そしてそれは、東三河大会優勝、さらに愛知県大会優勝として結実した。テープ審査の中部地区大会で敗れて、
全国大会への出場は叶わなかったが・・・・・。
練習で他の曲を歌った記憶がない。しかし、そんな繰り返しばかりの練習は、決して単調で退屈なものではなかった。
歌い込むにつれて詩の心がからだにしみ込んでくること、それに伴って表現が深まり、
コーラスとしての完成度も着実に上がってゆくことを実感できたからだ。多くを得た高校生活の中でも、
先生の指導のもとに大勢が共通の目標に向けて努力を重ね、そして一定の成果を挙げたこの体験は、
とりわけ貴重なものとして、いまもわたしの心にとどまっている。
授業で先生に腹をつつかれた想い出をもつ人は多いだろう。腹がへこむと同時にフッと息を
吐き出せという、腹式呼吸の指導なのだ。それと並んで常に強調されたのは、のどに負担をかけない
自然な発声だ。「目指すところは多少異なる」としながらも、レコードを聴かせ、模範として示されたのは、
ビング・クロスビーと灰田勝彦だった。
わたしにとって、こんな先生の教えが生きるのはカラオケくらいしかない現状だが、教え子のひとりひとりがこうして歌に
親しみながら人生を過ごすことは、おそらく先生がいちばん望んでおられたところだろうと、いま温顔を思い浮かべながら、
身勝手な想像を巡らせている。 (完)