時習館高校山岳部時代

時習館高校山岳部時代    田代肇

昭和32年4月に入学し、34年3月に卒業しましたが、我が青春の充実した高校生活はやはり山岳部に入ったことが大きかった。
先輩に恵まれいろいろ教わった事柄がその後の人生に大変役だったし、山登り途中のしんどさを経験したことで、自分の体力、
気力の限界も知りました。
特に4期の浅井千策さんからはいろんな時期や局面で山のことだけではなく、人間としてすばらしい生き方を教わりました。
彼の時習館山岳部への愛情や後輩指導は深く、彼の生き方はなかなか普通の日本人には出来ない純情で清冽、
私の人生経験で尊敬する人物の一人です。
すばらしい先輩には同じ4期の山本さん、9期の水越武さん、大山佳邦さん達からもいろいろ学びました。
浅井さん達の努力で私が入学した32年秋にはインターハイ愛知県代表に選ばれ鈴鹿山脈での大会に参加致しました。(水越、田代、向坂、渡辺)
当時の高校の山岳部で冬山合宿などやっていた高校は全国でも好くなかったと思われ、私達4人の同期生は先輩に感謝しなければと
今振り返って痛感しています。
部活は授業後体力作りで学校週辺を3~10km走ったり、次の合宿の計画、準備や先輩談を聞いたりするのが通常の生活でした。
土曜日には体力作りに本宮山(678m)に競争で登り、時間を自慢し合いました。
夏山合宿は1年生の時には北アルプス縦走、2年時、愛される山岳部を目指し夏は一般公募(女性徒も多かった)し南ア麓で先生達を含め
キャンプ、その後南アルプスを縦走しました。
積雪期では冬に甲斐駒、仙丈岳での合宿で零下30度の生活を体験しました。日の出、星の夜空のすばらしさは
今でも忘れることが出来ません。
印象深い部活の想い出では、部費でテントが買えないので、本宮山近くの山頂電波塔建設で荷揚げのバイト(セメント、砂利等)を1週間、
夜始めてウィスキーを金の食器一杯飲まされひっくり返ったことを鮮明に覚えています。
私は部では食料係を担当し、ジャガイモの皮むき、カレーライス作り、浅井さんの好きな目刺し焼き、いろんな餅料理、
冬の水作りなども良い経験になりました。
満70才の現在、55年前からフィードバックすると、山岳時代は楽しい想い出ばかりです。

山行参加:恵那山、北アルプス(全域)、鈴鹿、明神、南アルプス(ほぼ全域)、剣、立山

(平成22年8月記)


恵那山の時のこと
  田代肇

四月の末になって、来月五、六日の連休に山岳部で中央アルプスの南端ある恵那山に新人合宿に行くから許可を願いたいと、
計画書を添えて顧問の菅根だ先生を通じて、学校に提出した。ところが、夜行列車を使うとか睡眠時間が短いとかいう理由で、
学校としても責任が有り許可出来ないと言ってきた。その直後金田先生が部員全員の家に電話や手紙で連絡くした。
に善意もこういう事が合ったそうだが、今度は藤村の生家を見るという理由があったので、二三年のひとも楽観していたらしい。
そのため日数があまり取ってなかったので余計あわてた。それでは個人で行くより仕方がないと、形だけ個人で行くことに決まった。
僕は幸い家でも行っても良いと言ったが、一年生で今まで行くと言っていた人の中で四人行けない人が出て来た。
学校からの電話で「学校としては認めない」と言ってきたから家で許す話形はいかないお言うし、初めての山だから心配したからだ。
三年のひとたちは今までこんな事は何度も合ったからしパイする様子もない。僕達一年生はひどく心配だった。
新人合宿に新人が行かれなくなってはと言うので、当時リーダーの本多君や寺部君が中心となり、昆虫採集から帰られる金田先生「を駅で待ち受け、
一年生で行けない人が出た理由が先生のっでんわで有ることを話し、行けなくなった人の家に「学校としては認めないが個人としてはかまわない」と
電話してもらった。さらに先輩の山本さんも、恵那山は危ない山ではhないし本人が行きたがっているから生かせてやってくれと、
一軒一軒家を廻ってくれた。
それでも二人はどうしても駄目だった。日は迫ってくるので、二人にはまたの機会にと言って、急いで準備した。ところが出発の日の昼頃、
学校が認めるということになって二人は急いで準備し汽車に乗った。今年転入され、sたらしく顧問になられた河合先生もきてくれ、
これで一年生皆で行けるようになったが、これから行くことを思うと、手放しで喜ぶことは出来なかった。
現地に行って十八時間の行動はどうかと思われる。一眠りしてから出発すれば、小屋への到着阿賀遅れ、翌日の行動に差し支えたのかも知れない。
しかし学校が認めたのは睡眠時間などを訂正したからだろう。それを反故にして強行すれば、今後ますますやりにくくなるのではなかろうか。
それから学校では親しまれる山岳部になれと言う事で、本宮山や鳳来寺山に行くようにしろと言うが、これは少し無理だ。一年間、装備を調え、
本を読み、体力、技術の訓練をし、それを発揮する場が本宮山というのは無理だ。地元の山は訓練の場だ。
部では少しでも親しまれるようにと思い、御岳、南アなどで一般参加を募集したが、宣伝活動の甲斐無く、なかなか集まらない。
これだけやっているのにもっと親したしまれるようになれと言うことは無理なことだと思われる。

(昭和34年ころの山岳部部誌“はいまつ”より)

時習館山岳部の山行の記録

昭和32年

5月 恵那山          T(河合)OB浅井、水越、本多、寺部、稲垣、案水、磯田、

太田、向坂、佐久間、中西、牧、山口、渡辺、
7月 穂高→烏帽子縦走   T藤井、田中、 寺部、稲垣、太田、向坂、田代、渡辺
山口。中西
10月 鈴鹿(登山大会)    水越、田代、向坂、渡辺
12月 仙丈・甲斐駒      OB浅井、本多、稲垣、田代

昭和33年

2月 冬山講習会        本多、向坂、田代、渡辺
3月 春山合宿 荒川岳    OB浅井、水越、本多、向坂、太田、渡辺
5月 明神山           本多、稲垣、向坂、太田、田代
8月 一般公募          T金田、田中、久次目、小島 OB浅井、山本、石川、金子、
向坂、太田、渡辺、永谷
縦走→塩見        OB浅井、山本、余郷、向坂、田代、渡辺、永谷
9 月 木曽駒           太田、向坂、渡辺、永谷
12月 仙丈・甲斐駒      小坂、渡辺、永谷、近田 他

昭和34年

3月 赤石岳            向坂、永谷、近田、夏目、他
7月 南ア全山縦走(甲斐駒→光岳) 永谷、近田他
12月 仙丈・甲斐駒、

(向坂・田代両氏の記憶による)

  

 

 

 

 

徳本峠(左から5番目白シャツ田代君隣が渡辺君)

南アルプス縦走

上高地から穂高へ

高山植物

高山植物

雪渓

雪渓

テント生活

テント生活